往復100万円かけても安い? 世界の富裕層が東京より「日本のド田舎」を目指す理由

あたり一面は雪原。海を見下ろす丘の上に建つ北海道・豊頃町のオーベルジュ『エレゾ エスプリ』。白亜のレストランは美術館のよう。その隣に宿泊施設のヴィラ3棟が佇む
東京の三つ星店よりも「地方」へ
〈食〉は旅の楽しみの一つ。観光ついでに美味しいものを探して〈食〉を楽しむという人は多いはずだ。ところが近年では〈食〉は旅の目的。食べるために旅先を決める人たちがいる。お目当ての店がたった1軒でも旅に出る――それが世界の富裕層だ。
彼らはその店がたとえ何万キロ離れていても、どれほどアクセスが悪い場所にあっても、労も費用も惜しまない。
「例えば、北緯69度の地にある氷山が迫る人口わずか50人程度のデンマーク・フェロー諸島の小さな村に星付きレストランのシェフが開業した『KOKS(コックス)』という店がありました。店がある島にはヘリかボートでしか行けないのですが、世界中の富裕層が押し寄せました。
アクセスは非常に悪く、仮に東京から行くとしたら場合によっては移動に2~3日、費用は往復100万円程度かかる可能性も。それでも私が知る限り日本人にも数名は訪れた人がいます」
こう話すのは、ガストロノミープロデューサーの柏原光太郎氏だ。
実は近年、世界の富裕層の間で地域特有の食文化を求めて旅する〈ガストロノミーツーリズム〉がブームになっており、日本の地方のレストランが脚光を浴びているという。では、なぜ彼らは東京の高級店ではなく、あえて不便な日本の『地方』を目指すのか?
〈富裕層〉や〈ガストロノミー〉と聞くと、“お金持ちが味わう高級食材を使った料理”と思いがちだが、彼らが価値を感じているのは舌で味わうだけの「美食」ではない。
「ガストロノミー=美食には“キャビアなどの高級食材に舌鼓を打つ”といったネガティブイメージがありますが、私の認識はそれとは違います。目の前に出された料理がなぜその地域で発展したのか、食が成り立つ背景(食文化)を考えながら楽しむことがガストロノミーであり、それを求めて旅することがガストロノミーツーリズムなのだと思います。ただ旅には費用がかかります。そのため発展していく最初の段階が富裕層の美食体験にあるということだと思います」
“食文化を楽しむ旅”とはいえ、豊富な美食体験を持つ世界の富裕層が満足できる店が日本の地方にどれほどあるのか――。そう疑問に思う人もいるかもしれない。

日本での「デスティネーションレストラン」のモデルを築いた『オトワ レストラン』。栃木・宇都宮で地元の食材とフレンチの技法を駆使した料理を提供し続けている
パリより「宇都宮」を選んだ伝説のシェフ
しかし近年は、わざわざ遠方から足を運びたくなるような、旅の目的となり得る『デスティネーションレストラン』が続々誕生している。
インターネットの普及により、今まで雑誌やテレビを通してしか知り得なかったおいしい店情報が瞬時に広まるようになり、経済的にも成り立ちやすくなったことや、’00年以降に国が推進してきた“食を活用した地域創生”の動きなどを背景に、東京から地方に移住するシェフや、海外の名店での修業後に地方で店を構えるシェフが増えているのだ。
それにしても世界の三ツ星レストランなどで経験を積んだシェフたちが、なぜ都会ではなくあえて地方を選ぶのか――。その嚆矢ともいえるレストランが栃木県にある。
「栃木・宇都宮にある『オトワレストラン』の音羽和紀シェフは、フランス料理の巨匠であるアラン・シャペル氏に日本人として初めて師事したシェフですが、帰国後はローカルに根をおろすことを決め、1981年にオトワ レストランの前身である『オーベルジュ』を開業しました。
当時はネットもない時代ですから評判は伝わりづらいですし、東京のほうがたくさんのお客を獲得できる。それでも彼が故郷の宇都宮を選んだのは、地元の食材を使って表現する地方の食のおいしさを知ってほしいと思ったからです。
実はフランスでは、世界中から食材が集まるパリより、量は少なくても新鮮な食材が手に入る地方で料理を作るのは当たり前とされていて、音羽シェフが修業したアラン・シャペル氏の店があったのもパリではなくフランスの田舎町。そして修業時代の仲間たちもみな自分が暮らした小さな町での開業を目指していた。そこに影響を受けたのだそうです」

音羽和紀シェフ(中央)。2人の息子さんが共に店を支えている
音羽シェフが宇都宮での開業を目指したのは、その土地のテロワール(その土地特有の自然環境や文化が農作物や食の味わいに影響を与えているという考え方)を伝えたかったから。
当時は地方に高級フレンチを求める客が少なかったこともあり、画期的な試みだった。その後、音羽シェフは店を人気店へと導き、40年以上にわたり継続してきた。ここにデスティネーションレストランの原点があり、多くの料理人に影響を与えていると柏原氏は見る。
人口400人の限界集落に年間1000人の外国人が訪れる
10月、柏原氏が上梓した『世界の富裕層は日本で何を食べているのか?』(ダイヤモンド社)には、彼が厳選した日本各地のデスティネーションレストランが多数紹介されている。
例えば“狩猟食肉料理人集団”によるジビエ料理を提供する北海道・豊頃町のオーベルジュ『エレゾ エスプリ』や、エンタメ性と確かな目利きでお客を圧倒する北九州・戸畑の寿司屋『照寿司』など、今では世界の富裕層がこぞって訪れ予約が取りづらくなっている店も。その筆頭が、富山・利賀村(現・南砺市利賀村地区)にあるオーベルジュ『L’évo(レヴォ)』だ。
シェフの谷口英司氏はフランスでの修業後、富山市内のホテルでフランス料理の料理長として腕をふるっているうちに富山の自然や食文化に魅せられた。富山でしか作れない料理を提供しようと、休みのたびに県内の食材を開拓したが、 “地元の食材”への思いは増すばかり。ついには人口400人ほどの利賀村地区に新生『L’évo』(’20年12月)をオープンさせた。
店が建つのは自然豊かな山間部。それだけにアクセスが不便でレストラン利用者は自家用車か最寄り駅からタクシーでの訪問(バスは1日1便)になる。それでも海外から年間1000人、国内からも7000人が訪れる。
「谷口シェフは富山の食材を使うことの魅力に気づき、その地に根ざした料理を作るには食材の近くに自分が行かなければと思って山奥に店を構えました。ここで提供されるのは、地元の山奥で捕れた熊肉やシェフ自ら採集した山菜を使った料理、地元契約農家に特注しているひな鳥を使った品など“究極のガストロノミー”を味わえるコース料理です。
お客はここまで足を運ぶことで、なぜこの料理にこの食材が使われているのか、シェフの思いや食材の背景にあるストーリーを汲み取り楽しんでいる。訪れた人のなかに『その土地の人々を理解するのが食事。レストランは国の博物館に行くのと同じ』と語った海外の富裕層がいましたが、『L’évo』を通してこの地を知りたいと思っている人が、世界に年間1000人もいるということだと思います」

『L’évo(レヴォ)』谷口シェフのスペシャリテ「L’évo鶏」。地元の契約農家にレヴォ専用に育ててもらっているひな鳥を使う

『L’évo』はコテージやサウナ棟も備えたオーベルジュ。窓の外に大自然が広がるコテージ室内は、古民家の格子戸などを用い温かみがある

宿泊者のみが味わえる『L’évo』の朝食。“利賀村のお母さん”の味
海外の富裕層がこうした地方にあるデスティネーションレストランを高く評価するのは、時代とともに富裕層の価値観に変化が生じたことも理由の一つだと柏原氏は言う。
「富裕層もかつてはハイブランドを着て、プライベートジェットで旅先を訪れ、豪華なレストランで食事をするのを楽しんでいたと思います。しかし日々膨大な情報が入る現代では人が知らない“価値ある情報”を素早くキャッチし、発信することが楽しみになっている。当然、三ツ星レストランに行くより、アクセスは悪いけど凄腕の天才シェフがいる店にいち早く訪れるほうが自慢になります。都会のレストランに行き尽くした富裕層が求めるのは“人と違う体験”なのです。
また、食の情報が拡散されている今は料理をジャンルで語りづらくなっている。極端な話、“バナナをおいしく食べるための調理法”も話題になる時代です。各国の違いを知るにはテロワールが重要ですから、深く知りたいという欲求が生まれます。知るには時間も費用もかかりますが富裕層には可能です。こうした意識や価値観が、ガストロノミーツーリズムブームにつながっているのではないでしょうか」
狙い目は「静岡・焼津」…天才魚屋『サスエ前田』の奇跡の食体験
日本の地方にある、これほど魅力的なデスティネーションレストランを日本人が知らないのはあまりにももったいない。個人の懐事情によるとは思うが、ガストロノミーツーリズムは日本人にも広がるのだろうか。
「最近では日本人のなかにも〈食〉にお金を費やす層は増えています。どうせ食べるなら、食べログの3.5以上の店に行きたいと考える人も多いでしょう。そのなかの金銭的に余裕がある人たちが、『L’évo』のようなデスティネーションレストランに足を運んでいるのだと思います。
ただ、地方の食文化に興味がある人ばかりではなく、都会の名店は飽きた、予約困難な店に行きたいなどの理由で訪れる人もいる。それでも実際に店を訪れることで多くの発見があり、またほかの地方の食文化に興味が湧く人もいるはずです。そういう人たちがガストロノミーツーリズムを牽引していくのかなと思いますね」
ではこの記事を読み、興味を持った人が〈食〉目的で旅をするなら、どのあたりに行くべきか、注目エリアを教えてもらった。
「静岡・焼津はどうでしょうか。焼津には極上の魚を扱う魚屋『サスエ前田魚店』があります。5代目・前田尚毅氏は、漁師と信頼関係を築くなかで新たな試みを実践し、魚を最も理想的な状態で料理人に届けることを可能にしました。そのため日本中から『サスエ前田魚店』の魚を使って料理をしたいと料理人が集まってくるのです。
前田氏は、漁師→魚屋→料理人→食べ手という魚が届けられる流れを〈魚のバトンリレー〉として捉え大切にしています。そこには《チームサスエ》と呼ばれるコミュニティが出来上がっていて、魚が格段と美味くなる調理法を日々研究している。それが焼津周辺の料理屋のレベルの底上げにつながっています。
本の中で紹介していますが《チームサスエ》のお店は何軒かありますから、それらのお店を回ってみると、ガストロノミーツーリズムの魅力もわかり楽しめるのではと思います」
▼柏原光太郎(かしわばらこうたろう) ガストロノミープロデューサー。慶應義塾大学卒。文藝春秋で『週刊文春』『文藝春秋』編集部、文春文庫部長等を経て、新規事業開発に携わる。業界きっての食通として知られ、独立後、「一般社団法人日本ガストロノミー協会」会長、北九州市参与(食の魅力戦略担当)、Luxury Japan Award 2026選考委員、美食都市アワード審査員などを務める。著書に『ニッポン美食立国論』(講談社・2023年)『東京いい店はやる店』(新潮新書・2024年)がある。

「目の前に出された料理がなぜその地域で発展したのか、食が成り立つ背景(食文化)を考えながら楽しむことがガストロノミーであり、それを求めて旅することがガストロノミーツーリズムなのだと思います」と柏原氏

ガストロノミープロデューサーの柏原光太郎氏の著書『日本人の9割は知らない 世界の富裕層は日本で何を食べているのか? ガストロノミーツーリズム最前線』(ダイヤモンド社)
取材・文:辻啓子