旭化成は他社にベンチマークされる「最強の知財戦略」をどうやって作り上げたか?

旭化成 知財インテリジェンス室長の笠井健氏

マテリアル・住宅・ヘルスケアという全く異なる3つの領域でグローバルに展開する複合企業である旭化成。同社を語る上で欠かせないのが、日本における「IPランドスケープ」(IPL)の先駆者としての顔だ。特許庁が日本企業に「攻めの知財戦略」を根付かせようと推進しているIPLは、特許などの知的財産情報を分析・可視化し、その結果を経営や事業戦略に活用する手法。旭化成の知財部は、IPLという言葉が日本で浸透する以前から経営戦略と知財戦略を高度に融合させ、自社の強みを客観的なデータで証明し続けてきた。他社がこぞってベンチマークする「最強の知財戦略」について、責任者に話を聞いた。(聞き手/Diamond WEEKLY事業部編集長 小尾拓也、嶺 竜一、まとめ・撮影/嶺 竜一)

経営基盤の重要要素である

無形資産をどう企業価値につなげるか

――旭化成が近年、知財戦略に一層力を入れている背景を教えてください。

笠井 大きく言えば、無形資産をどう企業価値につなげるか、という課題意識です。そもそも日本企業全体として、米国を含む諸外国に比べて無形資産の利活用が十分ではない、という認識が以前からあります。

 当社には創業100年を超える過程で、コア技術や生産ノウハウなどが蓄積されています。BtoBのものづくり企業としてこれまでも特許の取得に力を入れてきましたが、今後はさらに“見えにくい資産”を積極的に利活用して企業価値につなげていくことで勝機を見いだしていこうと、改めて強く感じています。

 このような問題意識を背景にして、2022年に公表した中期経営計画では、無形資産を経営基盤の重要要素として位置付けています。

――自社の知財をどのように活用しているのでしょうか。

笠井 知財の活用には大きく分けて2つあると捉えています。

 一つ目は、特許権という“権利”そのものを活用することです。当社が持つ特許などの知的財産権を他社にライセンス(使用許諾)することで対価を得たり、他社の特許と当社の特許を組み合わせて新たなビジネスを創ったりといった活用です。

 二つ目は、特許権の情報を解析し、経営におけるさまざまな戦略に生かす、いわゆる「IPランドスケープ(IPL)」の活動を通じて価値を生み出していくこと。特許情報の活用も、広い意味で無形資産の活用だと考えているわけです。

 ともに、当社にとって重要な要素となっています。

――旭化成は1990年代から知財戦略に力を入れてきたそうですが、何か転機となる出来事があったのでしょうか。

笠井 化学の領域では電機やIT分野と比べるとアグレッシブな特許訴訟が相対的に多いわけではなく、知財での大きな攻防によって莫大な利益を得たり、損失を被ったりという転機があったわけではありません。

 とはいえ、特許を侵害しないための調査をはじめとする知財調査を重んじてきた会社であることは確かです。そのため技術者はもちろん、経営メンバーも知財の重要性について理解が深いという土壌がありました。そうした風土が脈々とあり、知財を取り巻く新しい活動を生み出すことに対しても受け入れられやすかったと思います。

――組織の話に移ります。旭化成には「知的財産部」と「知財インテリジェンス室」という知財に関連する部門が2つあるそうですね。それはなぜですか。

笠井 2022年4月に、もともとあった「知的財産部」から、IPLをつかさどる機能をスピンオフする形で「知財インテリジェンス室」を設置しました。この組織改編のポイントは、IPLをR&D(研究開発部門)の管掌下にある知的財産部の“外”に出すことで、経営企画の管掌下に独立して設置したことです。

提供:旭化成

 現在、知的財産部では権利形成、つまり発明を権利にしていく機能を担っています。先ほどお話しした一つ目の機能です。一方、知財インテリジェンス室は二つ目の機能を担います。IPLを中心に行い、知財を事業戦略や経営戦略に活用するための機能です。

IPLを高度化させた

背景には何があったのか

――2022年に組織分化を決断した「きっかけ」は何だったのでしょう。

笠井 もともと当社では、2018年ごろからIPL自体は開始していました。とはいえ当初は、R&D向けの研究開発の方向性や、特許出願をどう進めるかといった課題に資する手段として用いていました。

 しかし活動が高度化していく中で、IPLは必ずしもR&D向けの手段にとどまらず、事業戦略やさらに上流の経営戦略、経営判断を高度化する場面で利活用できるのではないかという機運が高まっていきました。それが2022年前後のことです。

 外部環境も後押ししました。2021年6月、東証のコーポレートガバナンス・コードが改定され、知財の情報開示を進めること、知財の投資・活用について経営が責任を持ち監督することといった趣旨が盛り込まれました。

 これにより上場企業として、知財部門がR&Dの傘下においてだけでなく、経営に近い場所でコミュニケーションする必要性を強く感じました。このような背景を経営トップに伝えることで、組織改編への理解を得て分化した、という流れです。

複数のアウトプットを組み合わせて

客観的な判断材料を提供する

――IPLをつかさどる知財インテリジェンス室は、具体的にどのような場面で経営や事業に関与しているのですか。

笠井 大きく分けて、経営戦略の高度化、事業戦略の検討、開発戦略の検討の3つに関与しています。ただし担当者ごとに、経営だけ、事業だけという特定の分野を担当しているわけではありません。テーマごとに、メンバー全員が関わる形で取り組んでいます。

 経営戦略の高度化について言えば、例えば他社との合弁会社設立や事業統合のように、経営判断が求められる案件があります。そうした場面で「この相手は本当に最適なのか」という問いに対し、IPLを使って知財の視点で検証するアウトプットを出します。

 具体的には、複数社の特許ポートフォリオを同一空間上に配置し、技術的な重なりや隙間を俯瞰(ふかん)します。ある会社と組めばこの技術クラスターを一気に補完できる、あるいはこの会社とは競合領域が多く、補完よりも競争の色合いが強い、といった示唆が出てきます。

 これは単なる件数比較ではなく、技術の中身や発展方向を踏まえた解析です。そうした分析を踏まえ、「このパートナーであれば、技術的シナジーがありそうだ」という判断材料を提示します。

 もちろん、IPLのマップ一枚で「この会社が良い」「この統合は正しい」と判断できるわけではなく、実際には複数のアウトプットを組み合わせています。

 特許ポートフォリオの位置関係、技術分野の重なり、将来性のある領域への布陣、さらには財務情報や市場動向なども含めて分析し、ストーリーを組み立てる。その上で、経営が判断する際の客観的な材料の一つとして提示するという位置付けです。

IPLの貢献例である

クリーン水素の事業化

――事業戦略の検討についてはいかがでしょうか。

笠井 当社は新規事業として再生可能エネルギーによるクリーン水素の製造を可能とする水素製造アルカリ水電解システムの事業化を目指しています。クリーン水素とは、生成時に二酸化炭素の排出が少ない水素のこと。水を電気分解して水素を取り出す「アルカリ水電解」という技術を用いて、カーボンニュートラルの実現を目指しています。

 当社単独ではこの事業は成り立たないので、サプライチェーン横断での連携が不可欠です。そこで「どの企業と組むと技術的シナジーが高いのか」「将来の市場構造を見据えたときに、どの位置に立つのが有利か」といった問いに対して、IPLを用いた分析を行いました。これにより、早期事業化につながる水電解システムにおけるパートナー候補を提案することができました。

 また、当社が50年以上続けてきた「食塩電解(イオン交換膜法)」の技術ノウハウ・特許網が、大型のアルカリ水電解という分野において圧倒的な参入障壁になることが明確化されたことで、経営判断の後押しにもなりました。

IPLによる貢献事例(提供:旭化成)

――具体例を聞くと、IPLの大切さを痛感します。

笠井 一方開発戦略の検討では、そもそも「どんなテーマに取り組むべきか」という問いに向き合うこともあります。これには主に2つのパターンがあります。

 一つは、ある程度お題が決まっているケースです。例えば「この会社と組む方向で検討している」「この領域に進出したい」「妥当性を技術視点から検証してほしい」といった依頼が事業部やR&D部門から来るケースです。

 これらは仮説がすでにあるので、技術的な裏付けを求めてIPLを使って確認していく。比較的取り組みやすいケースといえます。

 もう一つは、仮説がない状態からの提案です。「将来に向けて、どんな開発テーマに取り組むべきか」「どんな会社と組む可能性があるか」といった、いわば白地のキャンバスからの問いです。

旭化成・葛西氏

 まずは業界動向や技術トレンドを広く俯瞰し、当社のコア技術との接点を探りながら仮説を立てる。そこから特許情報を使って裏付けを取り、ストーリーを構築していきます。

 IPLは、ツールを操作しさえすれば簡単に答えが出てくるというものではありません。重要なのは、どんな仮説を立てるか、どの業界を先に見るか、どんな視点で切り取るかという設計です。ツールはあくまでその仮説を検証する手段であって、仮説自体は人間が立てるもの。技術理解とビジネス感覚の両方が欠かせないものといえます。

「決める」ためのものではなく

判断を高度化させるための材料にすぎない

――社内ではどのように連携しているのでしょうか。

笠井 実際のプロセスでは、R&D部門、知的財産部、知財インテリジェンス室の三者で議論することもあります。開発部門が「どんなテーマに取り組むべきか」と悩んだときに、知財インテリジェンス室に直接相談が来ることもありますし、知的財産部を通じて課題が共有されることもあります。三者でコミュニケーションを取りながら、仮説を磨き、IPLの分析を加え、方向性を整理していく、という流れです。

 強調したいのは、IPLは「決める」ためのものではなく、「判断を高度化する」ための材料だということです。可視化された客観データを基に議論することで、関係者の認識を揃え、自信を持って判断できるようになる。その意味で、経営や事業の現場に入り込む機能として位置付けています。

――経営への「上げ方」はどういうプロセスですか。経営会議に入るのですか。

笠井 IPLは全案件で必ず使われるわけではなく、パターンはいくつかあります。経営企画担当役員から、特定テーマについて「提案書のストーリーが客観的に妥当か検証してほしい」と直接依頼が来ることもありますし、経営企画部と連携し、投資提案などで必要な場合にアウトプットを出すこともあります。特に技術視点で検証が有効な、提携や協業の案件などでは判断材料として適している面があり、そうしたテーマを中心に利活用されています。

――知的財産部との連携はどのようにしていますか。

笠井 大前提として、知財戦略は事業戦略があって初めて生まれるものです。知財インテリジェンス室は事業部門とコミュニケーションを取りながら、IPLを活用して事業の方向性や提携先の考え方を整理し、そのアウトプットを知的財産部にインプットすることがあります。逆に、知的財産部が担当領域の課題感をつかみ、「この仮説について知財情報で解析してほしい」と依頼してくることもあります。

無形資産の価値をどう「見せる」かが

今後の知財戦略の大きな課題

――「成果の見せ方」は難しいでしょうか。知財がどう利益に貢献したかは、数字で示しにくいと言われます。

笠井 BtoBの素材産業では、知財“だけ”がどれだけ収益に効いたかを一対一で示すことは難しい面があります。コンテンツ産業のように商標・ブランドと売り上げが結び付きやすいモデルとは違いますし、医薬のように特許の価値を比較的定量評価しやすい領域とも性質が異なりますから。

 一方で、見える部分もあります。例えばライセンス収益は、特許1件をライセンスすると対価が発生するので対応が取りやすい。そうした見える部分はKPI(重要業績評価指標)として評価できます。

 投資家との対話も年々シビアになっています。「知財で何をしているか」「特許を何件持っているか」だけではなく、「なぜ知財が収益につながるのか」を説明してほしいという要請が強い。ガバナンスコード改定でも開示強化が求められており、各社が四苦八苦しながらストーリーを作っているのが実態だと思います。

 また業績やPBR(株価純資産倍率)といった指標と絡めて「無形資産の価値が本当に出ているのか」と問われることもあります。そうした指摘を受けることは、我々の活動について検証し考え直すための、ある種の戒めにもなっています。だからこそ、アウトプットがどう収益に結び付いていくのか、将来の期待値としてどう咀嚼してもらうか、知財に関する見せ方の工夫といったものは、当社はもちろん、広く日本企業の大きな課題でもあるのではないかと感じています。