東京は154%、地方は20%台…「大学進学は平等」はウソだった? 見えない格差の衝撃

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大学進学は「努力すれば報われる公平な競争」だと考えられている。誰もが同じ条件で受験に臨み、その結果が進路を決める…そんなイメージを持っている人も多いだろう。だが、その前提は本当に成り立っているのだろうか。進学という選択の背後には、見えにくい差が存在している可能性がある。大学進学をめぐる「見えない不平等」の実態に迫る。※本稿は、教育社会学者の寺町晋哉『なぜ「地方女子」は呪縛になるのか』(集英社新書)の一部を抜粋・編集したものです。
東京にある大学は
東北全体の約2倍
読者の皆さんが暮らす都道府県には、大学がいくつあるかご存じだろうか?図1からわかるように、日本の大学は、埼玉・千葉・東京・神奈川・愛知・京都・大阪・兵庫の三大都市圏に集中している(8都府県で全国の50.7%を占める)。大学数が多ければ、それだけ収容できる学生数も多くなる。

同書より転載
2024年度の18歳人口(推計)に対する大学収容力(*注1)が100%を超えているのは、東京154.9%、京都156.3%のみであり、それ以外の都道府県は100%を下回っている。そもそも、在住都道府県の大学へ「高校生全員」が進学することは不可能なのだ(*注2)。大学進学者のみに限定して改めて収容力を算出すると、収容力が100%を超えるのは宮城・東京・神奈川・石川・愛知・滋賀・京都・大阪・福岡となる。つまり、それ以外の道県では、必ず県外進学者が発生することになる。
*注1 大学の収容力は、2024年度の学校基本調査から「大学の所在地別の入学者数/3年前の中学校等の卒業者数」で算出している。
*注2 中でも東北・九州地方の大半の県は、収容力が20~30%台となっている。
余談だが、東北全体で54大学、九州・沖縄全体で79大学あるのに対し、東京23区内だけで102大学がある。東京在住であれば進学先として検討する大学が多すぎて悩むかもしれないが、東北や九州では検討できる大学が少ないことで悩むかもしれない。
大学数や収容力について簡単に触れたが、こうしたデータだけでも、「大学進学機会が平等である」と言い切ることが難しくなったのではないだろうか。本記事では、高校や家庭の影響力、「地方」における大学の存在感、「地方」で暮らすことに触れながら、大学進学という選択がさまざまな社会的条件に影響を受けることについて説明する。
誰もがうらやむ地位には
どんな人物がふさわしい?
個人の可能性を拓いていくことや新しい社会を形成していくことなど、教育にはさまざまな期待が込められているが、私たちが暮らす社会との関係で無視できない機能がある。それは選抜である。
教育社会学者、中村高康の『暴走する能力主義』によると、自由・平等・効率を標榜する近代社会では、社会的に恵まれた地位へつきたい人々の中から、適切な人を合理的に選抜することが求められている。この「適切な人」を選抜する際に、皆が納得できる基準でなければ不平不満が募り、社会秩序が乱れてしまうため、「能力」を選抜の基準にし、「能力」のある人が恵まれた地位へつくことを皆が納得してきた。「能力」を測ることは容易でないが、多くの社会では学歴(あるいは学業成績)を暫定的な基準として用いてきたのである(*注3)。
*注3 近代社会では「能力」の基準が常に暫定的なものであり、問い直され続けている不安定なものである(中村高康『暴走する能力主義―教育と現代社会の病理』ちくま新書、2018年)。
大学受験という全国レースは
「同じ条件」で行われているか
先の中村高康が説明しているように、暫定的とはいえ学歴が「能力」の基準足りえるために、いくつかの条件が重要となる。
第1に、学歴獲得過程が広く開かれていることである。例えば、大学受験は高卒資格を有していて本人の「やる気」さえあれば、誰でも可能であると思われている。つまり、大学受験というレースに参加することは全員可能であり、参加するからにはレースの結果(合否やどの大学へ進学できるかなど)を受け入れることが求められる。
第2に、学歴獲得過程が能力測定手続きとして、社会にとって説得的であることが必要となる。日本では全員一斉実施による学力筆記試験を行うことが一般的であると考えられており(高校入試も大学入試もその形態は多様化しているが)、同じ問題を同じ時間に解答し、そのほかの一切の条件を考慮せず「平等」に実施する試験の結果は、皆が一斉に参加するレースのようなものである。
その象徴とも言えるのが、毎年1月に行われている「大学入学共通テスト」である。約50万人が受験する巨大なイベントだが、全国津々浦々の何百何千という会場において、全く同じ時間に同じ科目の試験が行われるよう制度設計されており、まさに「同じ条件」で試験が行われることが徹底されている(*注4)。皆が「同じ条件」のテストだからこそ、その結果の成否は受験者本人の「能力」をあらわしたものと考えられるのである。
しかし、近年さまざまな格差が教育には存在していることが注目を集めている。例えば、教育社会学者、松岡亮二の『教育格差』では、両親の学歴という「生まれ」が、その子の幼少期から大学進学に至るまで影響を与え続けていること、数多くの格差を生み出していることを指摘している。また、筆者も分担執筆した『現場で使える教育社会学』において、日下田岳史は親の経済状況が大学進学率に影響を与えることを指摘している。
要は個人の「努力」の背後にある社会的諸条件によって、教育達成や学業成績に影響を及ぼす社会に私たちは暮らしているのである。
*注4 厳密に言えば、筆者が居住する宮崎県のような温暖な地域と、冬は悪天候に見舞われやすい日本海側とでは、「同じ条件」と言えないかもしれない。余談だが、「共通テストの試験監督」は筆者(他の大学教員も?)にとって大変辛い仕事である。
高校入学の時点で
走るコースは決まっている
情報が溢れている現代社会であれば、大学が身近ではない地域であっても、インターネットやSNSなどのメディアから、大学という存在を知る機会は数多くあるだろう。また、「学びたい学問がある」や「将来就きたい仕事のため」といった本人の意思も重要である。
ただ、それらだけで自然と大学進学を目指すわけではない。大学進学を目指すよう方向づける社会的条件として、学校教育、特に高校のもつ影響力は大きい。
(どの)大学へ進学するのかは、自身の学業成績と照合しながら最終的には本人が選択するが、その選択は自由に行われるわけではない。どの高校へ入学するかによって、卒業後の進路選択がある程度方向づけられるのである。皆さんの出身高校における卒業生の進路は、おおよそ似ているのではないだろうか(少なくとも年度によって大学や専門学校への進学、就職の割合がバラバラではないだろう)。
『現場で使える教育社会学』では、特定の教育プログラムに入ると、カリキュラムや教師からの期待、学力や学習態度が似た同級生などの影響によって、卒業後の進路が似たようなものへたどり着くことが示されている(*注5)。陸上競技の走路のように、あるコース(高校)を走ることでゴールまでの道筋(大学進学するか否か)が決められていることから「トラッキング」と呼ぶ。同じような学力層で構成される日本の高校教育は、学力偏差値で上位に位置づけられる高校へ進学すると、(入試選抜度の高い)四年制大学へ進学するようになりやすいのである。
このトラッキングをふまえると、仮に大学が身近ではない地域で暮らしていた生徒であっても、通っている高校が大学進学を中心とする進路指導を行っていた場合、志望大学を記入させられたり、模試を受けさせられたり、休み時間にクラスメートと志望大学について話し合ったりすることで、進路選択が徐々に大学へ方向づけられる、ということになる。大学進学を目指すクラスメートや進学を前提とする進路指導の影響を受け、「なんとなく」大学進学を目指すことも起こりうるのである。
*注5 松岡亮二が執筆する「制度が隔離する高校生活」という章を参照してほしい。
非都市部の高校の生徒は
学力があっても進学しない
ただし、このトラッキングにおいても非都市部では制約が存在する。地方県の進路プロセスに詳しい田垣内義浩の論文「地方県の非都市部からの大学進学」によると、地方県の非都市部の高校は若手に偏った教員構成、普通科と総合学科(普通科・専門学科の科目から自分で選択して学ぶ学科)が併置されることで教員の労働量の増加といったリソースの制約があるという。そうした制約の中でも高校存続のために国公立大学進学を保障する必要があり、普通科の学力トップ層を大学受験前提の「特進」コースへまとめ、限られたリソースを傾斜配分することで、地域からのエリートキャリアルートを守ることに高校は苦心する。
一方、「特進」コース以外の普通科の生徒に対して、教師は学力向上の期待は有しつつも、学習・進学意欲を向上させるような熱心な指導が困難になり、地域全体の大学進学率は低くならざるを得ない実態がある。興味深いことに、同一県内の都市部普通科高校における「特進」コース以外の普通科の生徒は、田垣内が調査した非都市部の高校普通科の生徒と比較して、学力レベルは同等であるものの、大学進学希望や学習時間が上回っていたのである。
同じ学力レベルであっても、高校の立地によってトラッキングの影響が異なり、大学進学を目指すか否かが変わってしまうことになる。
三大都市圏に多い
地元進学者の割合
県外進学する際、選択肢の多い三大都市圏へ皆が進学するわけではない。図2は出身高校所在地からみて、同一都道府県内、三大都市圏、それ以外に位置する大学へ進学した割合を示している。
大学の数が多い都道府県は同一都道府県内、いわゆる「地元進学」の割合が多い傾向にある。関東・東海・近畿地方などの三大都市圏に隣接している地域では三大都市圏への進学割合が多く、東北、九州地方は「それ以外」の割合が多い(*注6)。大学進学において、「どこに住んでいるのか」は、「どこへ進学するのか」を一定程度方向づけることがわかる。
図2は単年度のデータになるが、大学進学行動に詳しい遠藤健の『大学進学にともなう地域移動』では、47都道府県からどの都道府県の大学へ進学しているのかを50年分整理した膨大なデータがあり、都道府県によって進学先がおおよそ方向づけられていることがわかる。

同書より転載
*注6 東北では宮城、九州では福岡への進学者が多い。
先輩や兄姉が導く
地元を離れての進学

『なぜ「地方女子」は呪縛になるのか』 (寺町晋哉、集英社新書)
なぜ進学先が都道府県によって偏るのか。「地元」を離れて進学された方の中には、「兄姉がいる都道府県だったので親も賛成してくれた」「過去に先輩が多数進学している大学だった」といった経験をもつ人もいるだろう。
先の遠藤の著書で、福島県の高校生が首都圏進学を目指す要因について検討しているが、兄姉が首都圏にいる高校生は首都圏の大学を希望する傾向にあり、首都圏の大学へ進学する傾向にある高校へ在籍していれば、首都圏の大学を希望する傾向にあることがわかっている。「前例」があれば保護者も安心するだろうし、進路指導を担当する教師もノウハウを含めて指導しやすいだろうし、高校生本人も見通しをもって進学できるのかもしれない。いずれにせよ、家族構成や進学先の高校によって、高校生の進路形成が影響を受けることになる。
大学進学機会は万人に開かれているようにみえながら、実はそうではない。居住している地域によってはそもそも大学の収容力が足りなかったり、県外への進学も三大都市圏(あるいは大学数が多い県)が近隣にあるかどうかによって左右されてしまったりするのである。このように、一口に「地方」と言っても都道府県によって大学進学の実態は多様である。